りすぺくつしたい

歴史とか自分のルーツとか。ちょっと考えてみたい、少し阿呆な奴が生息しておりまする。

何処から来て何処へ行くのか。(『日本』の成立年代)

書くという程のことでもないのですが。
バブル世代って、実は


「『日本』という国が成立したのっていつか知ってる?」


この問いに99%応えられないんじゃないかって思うんです。
如何でしょうか。


最初は中国に朝貢する倭人(わじん)として歴史に出てくる。
自分達のことも倭(やまと)とか呼んでたっぽい。


これが『日本』と定められたのは浄御原令(きよみはらりょう)という法令が施行された西暦689年、という説が有力なそうで。


大海人皇子(おおあまつみこ)こと天武天皇が「作りなさい」とおっしゃって
奥さんのうののさららさん、持統天皇が完成させたというこの法令。


僕等の世代で赤字太文字で教わった大宝律令の制定が701年。
民法、刑法が定まる十年以上前から倭は「日本」になっていたことになりますよね。




恥ずかしいことに、僕もつい最近までこれを知りませんでした!




中国人もアメリカ人も自分達の国が成立した年月日を言える。
ロシアなんかはペレストロイカがもろにそうですかね?


ここで脱線。


20年前トルコ共和国に行ったとき。建国の父アタチュルク=トルコことムスタファ・ケマルの廟が兵隊さんに護られながらも観光客にばっちり公開されてました。ここ以外でも、世界大戦のどさくさにヨーロッパのあちゃこちゃから侵攻されまくってたのを必死で退け、何とか自主独立を勝ち得たエピソードなんかが非ムスリム・トルコ語独学僅か一か月なビギナーにも分かり易く解説されていたりしまして。


凄く分かり易い英語で解説文があったんですよね。
それだけ、帝政から脱却して新体制として建国したという事実を大事にしているわけで。
この廟ではトルコの学生さん(高校生さん達でした)の集団とかち合いまして、


「何であんたはわざわざトルコに来ているのに私達の言葉がそんなに下手くそなんだ」


と可愛いトルコのおにゃのこさんからお叱りを受けたりしまして。
おもてなし、とか称して先々実用性の薄い英語を無理くりカリキュラムに組み込もうとしているどっかの国の大人達より、よっぽどアイデンティティがしっかりしていらっさいまして。



何かもう、すいませんでした。


でも言い訳させてもらえば貴女と楽しくおしゃべりしていたご婦人は十数か国語を操れる海千山千のガイドさんであって、僕以外にツアーのお客でトルコ語を頑張っていた方はおらず、そもそもトルコ語を勉強したくとも教えてくれるところが当時の日本には何処にもなかったと言いますか、かの有名な(?)エルトゥールル号の名前すら知らんでお邪魔していたおっさんおばさんが大多数であったというのが以下略



片言のトルコ語で頑張ってコミュニケーションを取ろうとした結果。
自分たちが「日本」という国から来たんだ、ということを伝えたかったそれだけの為に、気付けば何故だか僕は合気道の体捌きを、空手をたしなんでいたカメラ好き青年は正拳突きやらその他基本技を一緒に披露しており、あんまりにも人が集まってきてしまった為(何かウケたらしく)廟を巡回していた兵隊さんに「此処で騒いではいけません」と怒られ即時解散を命じられてしまったという...。



他所様の国までお邪魔して、建国の父たる御方の祀られている場所でお前は何をやっとるんだ!というお話ですよね。



いやそれはともかく、あれだけ四苦八苦して、あの学生さん達に「日本人」というもんが何者か、欠片でも伝えられたんだろうか、わし等…。



とまあ、僕の昔の恥は此処までにしまして。


こういう話を「痛い奴w」と笑う、僕の同世代。
結構います。


だけれど。


じゃあ、君はよその国の人間に。
或いは、自分より下のこの国の世代の人達に。


「『日本』という国は何時出来て、現在『日本人』である僕達は何者なのか」


これをスラスラっと説明出来るのかな?
ってお話なんです。




まぁ、自分や自分の属するものの功績を主張するのが下手くそなのが国民性。
これはこれでおきまして。


久々にアニキこと長宗我部家にネタを振ってみましょう。
あ、このアニキの姓。


僕は長「宗」我部で通してますが、第一線の研究者さんによると、これもどうやら絶対じゃないようでして。


長「相」我部である可能性なんかもあるようです、どうも。
ン十年国費を勝ち得てコツコツ研究している方でさえ、苗字すらはっきりと断定出来ない御方、それがアニキ。


それどころか、長らく「これこそが土佐のいごっそうだ!」という逸話。
自分より身分の高い人に、公の場で堂々と意見して見せた、有名なエピソードがあるんですが。
それこそが実は創作であったということが分っちゃったりとか。


アニキこと元親公の家来さんが、アニキのお墓に献じたというその文書。
アニキの存命中を知っている人の筆だということ、
偉い奴に対しても言うことは言う、土佐の漢っぷりなお話であること、


これらによってこの伝承は史実であると見なされていたんですが。


実は、この文書こそが長宗我部滅亡後の、この元直臣さんのルサンチマン(弱者の憎悪)であったと分かったそうでして。


それより何より。
アニキはいごっそうとしてはか~な~り、異端であったようですし。
自分の意見をその場で堂々と述べるのが何よりもの美徳、とされる土佐で


「しとしととのへたまわん(ゆっくりじっくり沈思黙考して、静かにお話をなさる)」

なんっつーひととなり。


しかも、壬申の乱の後に即位した天武天皇~持統天皇の頃にルーツを見出すのがメジャーな中で、「秦氏(はたし)」なんて名乗ってらっしゃる。


秦河勝(はたのかわかつ)さんが渡来して活躍なさったのは、厩戸皇子(うまやどのみこ)こと聖徳太子の頃。天武天皇よりも更に前、大化の改新で後の天智天皇こと中大兄皇子に滅ぼされた蘇我氏にこそ、関わっていた訳で。
まあ、厩戸皇子ご自身が蘇我氏のバックアップを受けつつ同時に牽制もしていたとされている訳ですが。


アニキが土佐一国でも欲しかったんならば、当時の朝廷と幕府に最も影響力のあった勢力。
「御所」とさえ呼ばれていた不動の名家が当時の土佐にはおられたわけでして。
その、御所こと土佐一条氏をこそ真っ先に攻略していなければおかしいんですけれど。


アニキお得意の
「形骸化させてトップに近親者を据え付けてお家乗っ取り」
これを、何故か土佐一条にはやっていない。


それどころか、四国が豊臣に臣従して後も土佐一条は存続していたっぽい。
九州征伐に従軍して、戸次川で息子は戦死、アニキも暫く生死不明になっちゃった間なんかには、太閤殿下直々に土佐一条のお子さんに土佐を治めさせようとした、なんていう記録すらあるらしく。


本土とのパワーバランスを保つ為に四国を纏めて、根気強い対外政策を敷いていたというのが仮説ならば。
何故、そもそも自分のルーツを渡来人だとカミングアウトしていたのか。
自分の後々に有利なよう、例えばメジャーな姓に改姓した大名だって少なくない。
何故、それをやらなかったのか。
何故、目の上の瘤でしかない「土佐の御所」こと土佐一条を潰さなかったのか。
何か、存続させることでメリットが存在したのか。


或いは、潰せない何らかの理由があったのか。



うーん、謎です。
アニキこと元親公にとって、「日本」という概念とは何であったのでしょうねえ。



まあ、そんなこんななのが、僕のちょこちょこ調べているアニキ像であったりします。


三万円かそこらをぽーんと出せば一っ通りの有力な一次史料が原文で手に入るような、ワクワクドキドキするような伝承やら講談やらが満載な、本土のメジャーな方々とは並ぶべくもない訳でして。



そんな訳の分らん奴に、えらい目に合わされた方を御主君としていた家系(かもしれない)身としましては。
嗚呼、勝ち組って羨ましいよなぁ、というのが本音でありまする。



土佐視点では


「何だってそんな遠隔の地へ山越え海渡って出かけて行って略奪やら悪逆非道の限りをやりまくったことになってんの?


そこでその日時に悪さをする為には、
本来そっちへ出かけた大本命の戦場放棄しないと現場へ行けないし、やらかせないし、
そもそもやらかしたところでデメリットの方が大き過ぎて採算取れない赤字遠征でしかないじゃんっっ」


という、お話が結構ゴロッゴロしとりまして。
僕の御先祖が爺様の関わった辞書モドキの通り、土佐の「一領具足」であったとしたら。


長宗我部が勝っている間はめっちゃチヤホヤ後世で描かれているんだけれど、
織田から豊臣における四国征伐において、粘り強い交渉と撤退戦で何とか土佐一国だけは残せた、それに何らかの形で貢献した、という風には語られません。


裏切りと下克上が常であった時代、同盟者達を何とかもぎ取った土佐の地で手厚く匿った、というアニキの戦後処理も語られません。


唯々、太閤殿下が優しさ溢れるナイスガイだったんで、阿呆な田舎大名も御情けで飼ってもらった。


そんな風にしか伝わっとりませんな。


何だかどこかの敗戦国の、赤い紙で招集されていった人達。
ひいては、何処かの国々から延々とねじ込まれている罪状と。


ものっそくリンクしてしまうのは、僕の僻み根性なんですかねぇ。












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※※  警告は致しましたよ?!  ※※










嗚呼、学徒出陣で大陸へ行かされた御方。
御自分の心に負った傷を、旧来の「日本」を貶めることで癒そうとした作家さん方。
創作を史実「のように」好き勝手描いて、何の責任も取らずに逃げを打ってさっさとお亡くなりになった方。




創作ならば創作である、と堂々と断言為さり、夢を描き続ければ良かった。
史実に基づいた物語であるならば、きっちり検証し直して改訂版を発行すればよろしかった。



御自身の思想が、マルキストに少なからず染まっていること。
ソ連崩壊後に、せめて自覚為さればよろしかった。



どれもなさらなかった方。


これこそが「日本」だ、と銘打って、「日本」の未来の子供達へのメッセージなんぞを格好良く遺して安眠なさっている方々。


司馬遼太郎さんにお友達の皆さん。



傍迷惑極まりない。
アンタ等ロクな遺産を遺してくれとらんわ。





※※  本日も痛々しいお話にて。もう、このノリで参りましょう、此処は ※※

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